海南島
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海南島にまつわる人物 1

女傑・洗夫人

海口近辺で盛んな“洗夫人軍坡節”は洗夫人という女性を讃える祭礼。洗夫人とは6世紀(南朝梁から陳そして隋時代)522年生まれ602年没(一説によると512~590年)、嶺南南部のとある一族の首長の家に生まれ、高梁郡(現:広東省、広西省一帯)の太守の妻となり嶺南平定に尽力、夫の死後も孫の代までこの地域をよく治め、海南島を朝廷に帰属させた人物。

南朝梁時代の頃、高梁郡電白(現:広東省茂名市電城鎮山兜丁村)の俚という首長の家に生まれた。俚家は百越の一支族であり、一説には海南島の黎族の祖先ともいわれている。名は英、幼名百合。幼いころから賢く、戦上手で周辺部族を従えていた。兄の悪政を諌め、海南の諸族は彼女に従ったという。その頃の羅州(現;広東省化州市)刺史であった馮融は彼女の高名を聞き、高梁郡太守であった息子・馮宝の妻にした。馮家は北燕国主の末裔である。夫人は馮宝をよく助け、というより、馮宝よりもさらに先や状況の読める辣腕戦術家であった。
梁末年(560年頃)に馮宝が亡くなった後、嶺南地域は荒れたが数州を彼女が安定させ、南朝陳が始まるとすぐ、9歳であった息子・馮僕を、諸族の首長を率いて入朝させている。陽春太守となった馮僕が、宣帝(在位568年から582年)に対する反乱に誘われた時にはそれを許さず、諸族を率いて兵を起こし守りを固め、陳朝への忠節を貫かせた。その時に「私は忠貞を重んじてきた。お前がどうなろうとも、国(朝廷)に叛くことは出来ない。」と言ったという。反乱は成らず、夫人のおかげで逆族とならなかった馮僕は石龍太守となった。陳朝が滅ぶ(589年)と嶺南地域も荒れそうになるが、いくつかの郡は共に夫人を「聖母」と号せしめて長とし、地域安定をはかった。
隋朝が興り、文帝が嶺南平定を行おうと韋洸を派遣した時、陳朝の旧将が阻んだ。楊広(文帝の息子・後の煬帝)は夫人に使者を送り隋帰順を促すと、夫人は従えた諸族数千人を集め、終日慟哭し陳朝の亡国を嘆いたが、孫・馮魂を派遣して韋洸の広州入りを助けた。ほどなく地元有力者である王仲宣が反乱を起こし韋洸を広州城に囲むと、孫・馮暄を韋洸の援軍に向かわせた。しかし、馮暄は反乱側に味方し、なかなか兵を進めなかった。夫人はこれを知ると激怒し、馮暄を捕らえ獄に繋ぎ、代わりに別の孫・馮盎を送り、王仲宣を討たせた。その後、夫人は自ら鎧をまとって勅史を護衛し、諸州を巡って諸族を帰順させ、隋の嶺南平定すなわち中国統一に大きく貢献した。文帝は大変感謝し、故馮宝に広州総管・譙国公の位を授け、夫人を「譙国夫人」とした。直轄の役所を開くことを許し、緊急時には彼女の独断で6州の軍を動かすことの出来る権限を与えた。文帝の代に死去、朝廷より「誠敬夫人」の諡号を賜った。
煬帝の代に隋の政治が乱れてからも、馮盎が嶺南20州を平定、いわゆる隋末群雄の一人となり、後に唐に帰順している。
梁、陳、隋とめまぐるしく政治が変化した乱世において、夫人自身で約70年、孫の馮盎の代まで入れると約110年に渡り嶺南を実質的に統治していることとなる。

海口の洗夫人軍坡節 海口の洗夫人軍坡節

後世において夫人は神格化し、窮地に陥った民を救う伝説が数多くあるという。海南島で一番大きい洗夫人廟である新坡鎮の廟の創建縁起では、明時代、この地出身の進士・梁雲龍が戦に赴いた時、夢枕に洗夫人が現れ、その助言に従ったところ見事勝つことができた。梁雲龍はこれに感謝し、皇帝より賜った褒美で夫人像を造り、故郷に廟を建てたという。

辣腕政治家としても凄腕戦略家としても名を馳せ、鎧をまとい自ら軍の先頭に立って数々の動乱を鎮めたことから、洗夫人は勇ましい武装姿で描かれることが多い。しかし、決して武力にまかせた侵略的支配を行ったのではない。このことは世が乱れた時に多くの部族が自ら彼女の統治下に入ったことからも伺える。汚職に厳しく、己の権力は民の為に振るった。諸族の諍いを治め団結を促し、農業に力を入れ、有効な技術を積極的に普及して経済的な安定をも統治地域にもたらしている。その為、海南島だけでなく嶺南一帯で洗夫人は永らく敬われ続けている。広東省高州市には洗夫人を祀る廟が300以上現存し、夫人の生まれた電白では誕生日とされる旧暦11月24日に洗夫人節が行われる。
近世、周恩来氏は「中国最初の女性の英雄」と称賛し、江沢民氏は「私たち後輩が学ぶべき模範」と、彼女の行った民族団結と国家統一の精神を讃えている。


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