海南島
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海南島にまつわる人物 2

綿布の母・黄道婆

「黄道婆」またの名を「黄婆」「黄母」は13世紀(宋末期から元時代)に、木綿の栽培の推進と紡績機具の改良を行い「木綿紡績技術の革新者」「木綿織物の母」と呼ばれる女性。

1245年頃4月6日生まれ1330年没、松江府烏泥涇鎮(現・上海市華涇鎮)の人といわれる。貧しい家に生まれ、「童養媳」(幼児の頃に買い取られ、成長した後その家の嫁になる封建時代の幼児婚制度)で嫁いだが、嫁ぎ先での虐待に耐えかねて逃亡。身を隠した船が海南島へ向かう船であったことから、海南島南端の崖州に辿りつく。 この地で黎族の織物に出あい、その技術の高さと美しさに魅了される。当時、黎族は中国内で最も進んだ織物技術を持っていたのである。身寄りのないよそ者であった彼女に黎族の人々は同情し、共に暮らすことを許し、綿技術も惜しみなく伝授した。彼女は綿花の栽培から、綿繰機の利用、紡ぎ、染色から織りといった綿織物の全工程を学んだ。大変熱心にその技術を磨き、三十年近くを海南島で過ごすうちに、黎族の感覚と漢族の感覚を併せ持った素晴らしい織り手となる。現在の三亜市崖城鎮水南村に住んでいたという。

1295年から1297年頃、老年に達した彼女は一度捨てた故郷の地を再び踏む。故郷の烏泥涇は、土地がやせていて農耕に適さず貧しい土地柄であった。新しい収入源として、東南アジアから伝わった木綿の栽培と綿織物が普及し始めていたが、技術も機器もなく手間ばかりで利益を挙げることが出来ていなかった。そこに彼女は海南島で培った最新綿織物技術を普及する。製法を教え、機器の製造を伝授するだけでなく改良にも努め、現在“黄道婆紡車”とも呼ばれる“脚踏三維紡車”などを開発し、この地域の綿産業を飛躍的に発展させた。以後、明清時代を通じ、この付近から産する「松江綿布」といえば海外にも名だたる綿織物として名を馳せることとなる。

舞劇「黄道婆」 舞劇「黄道婆」

彼女の死後、人々は感謝し廟を建て「綿廟」とよんだ。現在も上海には黄道婆の記念館やお墓などが残り「中国産業革命の先駆者」とも「綿聖」とも称される。「黄婆婆、黄婆婆、教我紗、教我布、两只筒子两匹布(黄おばあさん、黄おばあさん、糸紡ぎ教えてよ、布の織り方教えてよ、二本の筒に二匹の布)」という童謡や、彼女を題材にした舞劇作品やテレビドラマなどもある。


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